好きな香り 

――2012年3月

じぶんより大きなまどがある部屋。
まどから外をのぞくと木のいちばん上がゆらゆらしている。なんだかきらきらもしている。
木の上をながめてたら光があたってあたたかい。……ねむくなってきた。

「――るは、……成葉」
「わ……」

手を握られてぼんやりしていたのがなくなった。
後ろを向いた時、落ち着く、安心する、好きな匂いがする。

「お母さん」
「どう?眺めがいいでしょ。私が昔使ってた部屋なの」

少しだけ笑うお母さんに対してうなずく。
手をひかれながら家にあるものを教えてもらった。
部屋の隅にあるキッチンは一つのコンロ、シンク。足下にある真四角の冷蔵庫。
入り口の横にある扉はトイレとシャワー。シャワーは透明な壁と扉の中にあった。

「面倒でもちゃんと毎日身体を洗うのよ」

そういいながら足下に置かれているボトルを、しゃがみこんで掴んでゆらしてる。まだ中身があるから当分大丈夫!らしい。
もう一個のボトルを確認しているお母さんの眺めていると、壁ついてある鏡に目がいった。
今見ていたお母さんと同じような、でも同じじゃない顔があった。ぼんやりして見えづらいけどちゃんと違うところは、鏡の中の顔は目の色が左右で違う。

「……その目、本当に大丈夫?」

ボトルを確認していたお母さんが、いつの間にか私に向き合っていた。
お母さんの手がわたしの左頬に触れると、暖かくて、安心して、心が落ち着く。

「うん」

何が大丈夫って聞かれてるかよくわからないけど、何も困ってないから大丈夫。
鏡の中に映っている、右が赤で左が緑の目をしているお母さんに似た顔はわたしだったらしい。鏡では右側をお母さんが触っているのに、わたしは左を触れられている。ふしぎ。
片方の目が赤くなっていたのも今知ったけど、いつなったのかは覚えてない。
あの時かなと少しだけ思ったけど、なんとなくそれを思うのも嫌だったからすぐに頭の中からいなくなった。

お母さんが小さくなにか言った気がする。暖かい手で眠くてぼんやりしていたからちゃんと聞こえなかった。

「そうだ、成葉に渡したいものがあるの」

そういってわたしから離れていった。触れていた手が離れて、気持ちが寂しくなってくる。
お母さんを追いかけてシャワーとトイレの部屋から出ると、持ってきていた大きなかばんを広げていた。

「これこれ」

取り出したものは、人の顔と同じ大きさの……なんだろう。わからない。
手渡されて持つけど、やっぱりわからない。とりあえず回して眺めてみる。

「ガスマスクなんだけど、これなら成葉のその目も隠せるでしょ」
「がすますく」

言われた言葉を同じようにいってみた。顔につけて、オレンジ色のガラスの部分で向こうがみえるらしい。
試しに顔に近づけてみると、母さんがちゃんと見えるか聞いてきた。
さっきまでよりすこしオレンジ色だけど、疲れたときこのぐらいの色の時もあるし、あまりなにも変わらないと思う。

「見えてる、たぶん」
「そう?それならよかった、今日から毎日つけといてほしいから」

お母さんがマスクのはしに付いているヒモみたいなのを持ってくれて、後ろでぱちんと音がした。
両手で持ってないといけなかったマスクは、手をはなしても落ちなくなった。べんり。

「あとこれをつけたら完成ね」

口元を少し押されたら、何かがそこについたみたいで少しあごあたりがおもい。
これ、が何か教えてくれなくてなんだろうと首を横に倒していると、なんだかいい香りがしてきた。
ふわりとした、葉っぱのような、落ち着く、安心する、お母さんからする匂いと一緒。

「成葉のために香り付きのフィルターを作ったの。私1人だと無理だから、貴女のお父さんにも手伝ってもらったのよ」
「おとうさん」

頭の中で思い浮かべようとする。ぼんやりとしてはっきりしない。頭の中で何人かみたことのある男の人がちょっと並ぶ。
多分、この人。という男の人を一人選んでいたら、お母さんが何か話してくれているのを聞き逃していた。

「――…から、成葉のおかげよ。ちゃんとした理由であの人にも定期的にあえて本当に嬉しいわ」

嬉しそうにいうから、うん、と頷いた。多分"おとうさん"の話かな。

「あと、この香りがしてないと成葉はぼんやりが酷くなるから、マスクを外すのは必ず1人でお家にいる時だけよ」
「……あの、あれ、お水とかの時は?」
「それはここを押すと…」

わたしの手を掴んで、マスクの口のところに持ってきた。ボタンがあるから、と言われて押してみるとまたかちっと音がなる。
そのままフィルターを持つと簡単に外れて、あごが軽くなった。口が外に出て、手で直接触れる。

付け方、外し方、手入れの仕方、何回か繰り返して教えてもらって覚えた。フィルターをつける真ん中のところ以外にも左右になにかつけれそうな場所があるけど、それは使わないらしい。
多分、きっと。明日から1人でできる。ちょっと不安かもしれない、外したマスクをじっと見つめる。

「……ごめんね成葉」
「お母さん?」
「これまでも……これからも成葉にばっかり大変な思いさせて……」

抱きしめられて、お母さんの表情はみえない。肩越しになんとなく、泣いてるのかなと思った。
大変……大変なのかな。わからない。いやなこととか、痛いこととかはあった気もするけど、今はないから。

「お母さんも……から、成葉は――……」
(……暖かい)

頭がぼんやりして、お母さんが言っていることは聞こえてるけど、理解はしてるけど、覚えていられる場所からは消えていくみたい。
ただ、お母さんの声がふわふわしてあたたかくて、安心した。このままお母さんに寄り添ったまま、寝たいなと思う。

「だから、お母さんにはもう成葉だけだから、成葉もお母さんとずっと一緒にいれるよう頑張ろうね」
「――うん」

最後だけ、ちゃんと、はっきりと、聞こえてきた。うん、うん。ちゃんと覚えていられる。

わたし、お母さんと一緒にいれるよう、1人になっても討伐団に入れるよう頑張るね。